夢来やっちゃん
5年とかに一度の同窓会でしか会わない河野くんからメッセージが届いた。
「こんにちは🎵
ずいぶんご無沙汰してます。
河野です!
元気にしてますか?(^^)
7月に大石でライブをやりませんか?
日程や詳細は大石さんから改めて連絡かあると思うのでヨロシクお願いします(`◇´)ゞ」と言う話で6月18日の事。
私は北海道の苫小牧にいて、旭川に移動ってところだった。
「7月なら最終の27日に福岡があり、その翌日の28日。
8月で良ければ3日なら余裕あります」と返事をした。
「なら8/3にお願いします」とすぐに決めてくれた。
「大衆フォーク酒場大石」は、2017年2月に夢来の小野やっちゃんが企画をしてくれたお店だった。
忘れられないのは、
前の年の2016年7月にやっちゃんが大分の「SCENE」で企画してくれて、いつものように甲原さんが来てくれた。
「純子さん、僕の家がな、すぐ近いんよ。
今度時間がある時に飲みにおいでよ」と言ってくれた。
なかなか人の家にお呼ばれするのは気がひけて。。
それが翌年の事、毎年来る甲原さんからの年賀がなく、
1月半ばも過ぎて「喪中」が届いた。
甲原さんが亡くなった、とある。
やっちゃんに電話した。
「そんなん知らんで。甲原先生、7月の「SCENE」に来ちょったやねぇかえ〜」って。
そうなの、だから電話したの。
「家に連絡したら、甲原先生やっぱり亡くなったそうやわ。純ちゃん、2月の大石の時早目に来て甲原先生とこ行くかえ?連れて行くで」ってやっちゃんが言った。
大石の日、駅にお迎えに来てくれて、
ランチをご馳走してくれて、リハの前に甲原さんの家に向かった。
昨年7月のライブの後、甲原さんは9月の夕暮れに「夕焼けが見たい」って奥さんと近くの公園に行って家に戻って来て頭が痛いって倒れて、そのまま亡くなったそうです。
「主人のアトリエ、まだそのままにしてあるんです。見られますか?」って言われて通された。
部屋のテレビのすぐ横の壁に私のフライヤーが貼ってある。
「主人はいつもここに座って飲みながらテレビを見てたんです。きっと喜んでると思います。純子さんとここで飲みたいって言ってたから。手作りの真空管のステレオ、これもよくかけてました」と言い、そちらを見ると真空管のアンプの上に私のCDがあった。
どうして私は、お言葉に甘えてここにお邪魔しなかったんだろう、と真剣に悔やまれた(T_T)
「大石」と聞いてそんな時間を思い出した。
もう、逢えない人。
もっと逢っておきたかった人。
その日の大石のライブでは、アンコールに甲原さんの事思って「追憶」を歌った。
6月27日同級生の岡島くんから電話です。
「北海道やろ?天気はどう?」
岡島くんね、私のツアーのチェックはちゃんとしてくれてる人なんです。だからね、ツアー中の電話だなんて何かあったのかな?と思った。
「それとな、誰かから聞いたかも知れんけど。
夢来の小野さんが亡くなったそうなんや、昨日」
ねぇ、ちょっと待って。
なんで?そんな事あるはずない。
「大石」の日、やっちゃんが好きって、俺も歌っていい?と言ってくれてた「とまどい鎮魂歌」を歌った。
翌日は智ちゃんとキミさんがやっちゃん宅に連れて行ってくれた。
4月に腰が痛くて病院に行ったら膵臓癌、ステージ4で余命3ヶ月と言われたそうです。
でももう一度歌いたいって、凄く頑張ったって。
「晩ご飯を食べたらすぐにここに座ってギターを毎晩弾いてたんですよ。よく原口さんのCDをかけて一緒に歌いよったわぁ。原口さん、主人の分までこれからもずっと歌ってな」と奥さんが言った。
もう逢えない人。
もっと逢っておきたかった。
「最初の頃はな、ライバル心でいっぱいやって話もせんかったけどな。今は純ちゃんのファンで!」
そう言って私のTシャツを着て、ライブの企画をしてくれた、あの頃憧れだった夢来のやっちゃん。
私がそちらに行くまで、そちらで楽しく歌っていてください。
ありがとう。
心よりご冥福をお祈りいたします。
「こんにちは🎵
ずいぶんご無沙汰してます。
河野です!
元気にしてますか?(^^)
7月に大石でライブをやりませんか?
日程や詳細は大石さんから改めて連絡かあると思うのでヨロシクお願いします(`◇´)ゞ」と言う話で6月18日の事。
私は北海道の苫小牧にいて、旭川に移動ってところだった。
「7月なら最終の27日に福岡があり、その翌日の28日。
8月で良ければ3日なら余裕あります」と返事をした。
「なら8/3にお願いします」とすぐに決めてくれた。
「大衆フォーク酒場大石」は、2017年2月に夢来の小野やっちゃんが企画をしてくれたお店だった。
忘れられないのは、
前の年の2016年7月にやっちゃんが大分の「SCENE」で企画してくれて、いつものように甲原さんが来てくれた。
「純子さん、僕の家がな、すぐ近いんよ。
今度時間がある時に飲みにおいでよ」と言ってくれた。
なかなか人の家にお呼ばれするのは気がひけて。。
それが翌年の事、毎年来る甲原さんからの年賀がなく、
1月半ばも過ぎて「喪中」が届いた。
甲原さんが亡くなった、とある。
やっちゃんに電話した。
「そんなん知らんで。甲原先生、7月の「SCENE」に来ちょったやねぇかえ〜」って。
そうなの、だから電話したの。
「家に連絡したら、甲原先生やっぱり亡くなったそうやわ。純ちゃん、2月の大石の時早目に来て甲原先生とこ行くかえ?連れて行くで」ってやっちゃんが言った。
大石の日、駅にお迎えに来てくれて、
ランチをご馳走してくれて、リハの前に甲原さんの家に向かった。
昨年7月のライブの後、甲原さんは9月の夕暮れに「夕焼けが見たい」って奥さんと近くの公園に行って家に戻って来て頭が痛いって倒れて、そのまま亡くなったそうです。
「主人のアトリエ、まだそのままにしてあるんです。見られますか?」って言われて通された。
部屋のテレビのすぐ横の壁に私のフライヤーが貼ってある。
「主人はいつもここに座って飲みながらテレビを見てたんです。きっと喜んでると思います。純子さんとここで飲みたいって言ってたから。手作りの真空管のステレオ、これもよくかけてました」と言い、そちらを見ると真空管のアンプの上に私のCDがあった。
どうして私は、お言葉に甘えてここにお邪魔しなかったんだろう、と真剣に悔やまれた(T_T)
「大石」と聞いてそんな時間を思い出した。
もう、逢えない人。
もっと逢っておきたかった人。
その日の大石のライブでは、アンコールに甲原さんの事思って「追憶」を歌った。
6月27日同級生の岡島くんから電話です。
「北海道やろ?天気はどう?」
岡島くんね、私のツアーのチェックはちゃんとしてくれてる人なんです。だからね、ツアー中の電話だなんて何かあったのかな?と思った。
「それとな、誰かから聞いたかも知れんけど。
夢来の小野さんが亡くなったそうなんや、昨日」
ねぇ、ちょっと待って。
なんで?そんな事あるはずない。
「大石」の日、やっちゃんが好きって、俺も歌っていい?と言ってくれてた「とまどい鎮魂歌」を歌った。
翌日は智ちゃんとキミさんがやっちゃん宅に連れて行ってくれた。
4月に腰が痛くて病院に行ったら膵臓癌、ステージ4で余命3ヶ月と言われたそうです。
でももう一度歌いたいって、凄く頑張ったって。
「晩ご飯を食べたらすぐにここに座ってギターを毎晩弾いてたんですよ。よく原口さんのCDをかけて一緒に歌いよったわぁ。原口さん、主人の分までこれからもずっと歌ってな」と奥さんが言った。
もう逢えない人。
もっと逢っておきたかった。
「最初の頃はな、ライバル心でいっぱいやって話もせんかったけどな。今は純ちゃんのファンで!」
そう言って私のTシャツを着て、ライブの企画をしてくれた、あの頃憧れだった夢来のやっちゃん。
私がそちらに行くまで、そちらで楽しく歌っていてください。
ありがとう。
心よりご冥福をお祈りいたします。