やなぎの話
東北のやなぎが亡くなったと知らせが届く。
いやいや昨日こそfacebookで埼玉の和尚がやなぎのライブに行った記事を載せていて、
「あー、やなぎは音楽のセンスってあったな」なんて思いながら読んだのです。
読み返してみると、和尚もやなぎが亡くなった知らせで昨年のやなぎのライブの記事を載せていたものだった。
やなぎとの思い出を。。。
ライブの履歴を辿ると、遥か2001年の話、kimiさんと陽介くんとで大分の「第一回七瀬川フォークジャンボリー」に私が参加できるように計らいをしてくれて、そこに初めて長崎のあーさんが歌を聴きに来てくれた。
それから私は2ヶ月に一回は長崎「ワインバー田舎」に呼んでもらう事になる。
ある時マスターの梅ちゃんが「純子さん、今日は糸島からライブに来る子がおっとさ(いるよ)」と言う。
「梅ちゃん、私も糸島から来たよ」と笑うと「だけんさ、その子は酒屋の息子でもうすぐ自分の店を持つらしいからその店で歌がうたえるようになれば良かね」って。
「そんな話なら仲良くせなや〜ん!」笑
って、事で翌年糸島に「酒店ちきゅう屋」が誕生して7月に棟上げライヴをやった。
その時に「インターネットで歌を聴いて来た」と言って栃木から陽さんと言う画家さんがいらした。
「美味しい博多のラーメンが食べたい」と言うので、まだこんなに有名になる前だったけど翌日「一蘭」にご一緒して、その時に「いつか栃木の僕のギャラリーでも歌ってください」と言ってくれた。
まだ、その頃は関東へは出ていなくて、2004年初めて関東で声を頂いた時に足を伸ばして栃木まで行った。
その時に、やなぎがいたの。
第一印象はあまり良くなくて、彼もそうだったみたい。笑
夜に飲んでいて、「九州に行った事がない」と言うやなぎに「私は東北に行ってみたい」と話した。
2005年4月にやなぎと奄美大島の榊さんを迎えて「ちきゅう屋」と「ドリームボート」でライブを企画した。
その6月には私は奄美大島で歌えるようになり、9月には東北の岩手を数カ所やなぎと回った。
それからは、年に2度やなぎは九州に来て、鹿児島や熊本や宮崎に連れて行ったの。
大分ではkimiさんにお世話になり、「中津江フォークジャンボリー」にも一緒に出させてもらったりした。
3.4年も一緒に回ったかな?
もうお互いひとりで回れるようになってからは、イベント等で顔を合わせる位でここ10年は会ってなかったんじゃないかな?
私の東北は、やなぎのお陰です。
その時の最初のお客様、一ノ関の猊鼻渓の船頭さん修ちゃんは今だに応援してくれています♪
2009年に作ったアルバム「歌うたいの恋」を収録中に、やなぎは糸島のスタジオを拠点に九州を回っていて、ギターのサポートをお願いした。
「カナダの夜」と「貴方を失くして」
「カナダの夜」は、19歳の頃大分で「ハイウェイスター」と言うバンドに入れられてそのひとり「willy中野」さんが私にあてて書いてくれた曲だった。
♪優しさも色失くす砂漠の嵐
愛さえ凍るカナダの夜も
君の歌君の声があれば
君が歌い続けていれば
もうwillyさんは歌をうたってないそうで、私が歌えたらと兼ねてから思っていた。
willyさんはストロークで力強く歌っていたから、私も同じ感じで歌ってみた。
やなぎが「この歌はそんなイメージ?」と言ってスリーフィンガーでギターを爪弾いた。
「良いね^^それなら私も力を抜いて歌う!」と言ったもの、スタジオではなかなか力が入るものなのです。
私たちは、大きなミキサーのあるブースにマイクを運んで、やなぎはそこでギターを弾き私が歌った。
「貴方を失くして」は古い歌でkimiさんが「純ちゃんたまには歌ってよ」とその頃よく言ってた曲で頑張ってアルバムに入れた。
ギター1本では心許無くサポートが欲しいと考えていたから、ジャストなタイミングでやなぎにお願いした。
アルバムお持ちの方は、良かったら是非この2曲を聴いてやなぎのご冥福をお祈りしてください。
よろしくお願いします。
willyさんは、もう1曲私をイメージして曲を書いてくれてます。
♪扉を開けて今 君は足を踏み出す
まだ見ぬ町の駅に降り立つ
そこで思い出を作る為じゃなく
君の道に 君の名を記すために
そんな出だしの曲だった。
まだ、私は大分の田舎町の片隅にいて、歌をうたいたいのに思うようにやれず、友達はひとり、ふたりと東京や大阪や福岡に出て行って、それでも私にはそんな勇気もなくて。。。
そんな時に、willyさんが私に作ってくれた歌。
「こんな風に旅をして歌がうたえたら」ってひたすら願った。
栃木で最初にやなぎに会った時、ちょうどやなぎも同じ思いで仕事を辞め歌い始めた時だった。
だから、あの頃はお互いが必要で必然的な出会いだったんだと思う。
私は、これまでの数々の出会いに感謝の思いでいっぱいです。
今回のやなぎみたいに、たとえ突然倒れてそのまま死んじゃったとしても、
今まで本当に幸せに歌って来れた事、限りなく満足な人生だったと思ってね。
どうか、悲しまないでください。
一緒にいっぱい笑った事、思い出して欲しいです。
って、
こんな事言ってるヤツは、きっとまだまだ長生きしそうです。爆
いやいや昨日こそfacebookで埼玉の和尚がやなぎのライブに行った記事を載せていて、
「あー、やなぎは音楽のセンスってあったな」なんて思いながら読んだのです。
読み返してみると、和尚もやなぎが亡くなった知らせで昨年のやなぎのライブの記事を載せていたものだった。
やなぎとの思い出を。。。
ライブの履歴を辿ると、遥か2001年の話、kimiさんと陽介くんとで大分の「第一回七瀬川フォークジャンボリー」に私が参加できるように計らいをしてくれて、そこに初めて長崎のあーさんが歌を聴きに来てくれた。
それから私は2ヶ月に一回は長崎「ワインバー田舎」に呼んでもらう事になる。
ある時マスターの梅ちゃんが「純子さん、今日は糸島からライブに来る子がおっとさ(いるよ)」と言う。
「梅ちゃん、私も糸島から来たよ」と笑うと「だけんさ、その子は酒屋の息子でもうすぐ自分の店を持つらしいからその店で歌がうたえるようになれば良かね」って。
「そんな話なら仲良くせなや〜ん!」笑
って、事で翌年糸島に「酒店ちきゅう屋」が誕生して7月に棟上げライヴをやった。
その時に「インターネットで歌を聴いて来た」と言って栃木から陽さんと言う画家さんがいらした。
「美味しい博多のラーメンが食べたい」と言うので、まだこんなに有名になる前だったけど翌日「一蘭」にご一緒して、その時に「いつか栃木の僕のギャラリーでも歌ってください」と言ってくれた。
まだ、その頃は関東へは出ていなくて、2004年初めて関東で声を頂いた時に足を伸ばして栃木まで行った。
その時に、やなぎがいたの。
第一印象はあまり良くなくて、彼もそうだったみたい。笑
夜に飲んでいて、「九州に行った事がない」と言うやなぎに「私は東北に行ってみたい」と話した。
2005年4月にやなぎと奄美大島の榊さんを迎えて「ちきゅう屋」と「ドリームボート」でライブを企画した。
その6月には私は奄美大島で歌えるようになり、9月には東北の岩手を数カ所やなぎと回った。
それからは、年に2度やなぎは九州に来て、鹿児島や熊本や宮崎に連れて行ったの。
大分ではkimiさんにお世話になり、「中津江フォークジャンボリー」にも一緒に出させてもらったりした。
3.4年も一緒に回ったかな?
もうお互いひとりで回れるようになってからは、イベント等で顔を合わせる位でここ10年は会ってなかったんじゃないかな?
私の東北は、やなぎのお陰です。
その時の最初のお客様、一ノ関の猊鼻渓の船頭さん修ちゃんは今だに応援してくれています♪
2009年に作ったアルバム「歌うたいの恋」を収録中に、やなぎは糸島のスタジオを拠点に九州を回っていて、ギターのサポートをお願いした。
「カナダの夜」と「貴方を失くして」
「カナダの夜」は、19歳の頃大分で「ハイウェイスター」と言うバンドに入れられてそのひとり「willy中野」さんが私にあてて書いてくれた曲だった。
♪優しさも色失くす砂漠の嵐
愛さえ凍るカナダの夜も
君の歌君の声があれば
君が歌い続けていれば
もうwillyさんは歌をうたってないそうで、私が歌えたらと兼ねてから思っていた。
willyさんはストロークで力強く歌っていたから、私も同じ感じで歌ってみた。
やなぎが「この歌はそんなイメージ?」と言ってスリーフィンガーでギターを爪弾いた。
「良いね^^それなら私も力を抜いて歌う!」と言ったもの、スタジオではなかなか力が入るものなのです。
私たちは、大きなミキサーのあるブースにマイクを運んで、やなぎはそこでギターを弾き私が歌った。
「貴方を失くして」は古い歌でkimiさんが「純ちゃんたまには歌ってよ」とその頃よく言ってた曲で頑張ってアルバムに入れた。
ギター1本では心許無くサポートが欲しいと考えていたから、ジャストなタイミングでやなぎにお願いした。
アルバムお持ちの方は、良かったら是非この2曲を聴いてやなぎのご冥福をお祈りしてください。
よろしくお願いします。
willyさんは、もう1曲私をイメージして曲を書いてくれてます。
♪扉を開けて今 君は足を踏み出す
まだ見ぬ町の駅に降り立つ
そこで思い出を作る為じゃなく
君の道に 君の名を記すために
そんな出だしの曲だった。
まだ、私は大分の田舎町の片隅にいて、歌をうたいたいのに思うようにやれず、友達はひとり、ふたりと東京や大阪や福岡に出て行って、それでも私にはそんな勇気もなくて。。。
そんな時に、willyさんが私に作ってくれた歌。
「こんな風に旅をして歌がうたえたら」ってひたすら願った。
栃木で最初にやなぎに会った時、ちょうどやなぎも同じ思いで仕事を辞め歌い始めた時だった。
だから、あの頃はお互いが必要で必然的な出会いだったんだと思う。
私は、これまでの数々の出会いに感謝の思いでいっぱいです。
今回のやなぎみたいに、たとえ突然倒れてそのまま死んじゃったとしても、
今まで本当に幸せに歌って来れた事、限りなく満足な人生だったと思ってね。
どうか、悲しまないでください。
一緒にいっぱい笑った事、思い出して欲しいです。
って、
こんな事言ってるヤツは、きっとまだまだ長生きしそうです。爆